どれだけ銀英伝やねん、とか。以降のスペースオペラ(タイラー、でたまか、星界の紋章etc)が元祖をふまえつつオリジナリティを出していたのと比べ、あまりにもそのまま過ぎる。企業連盟、電子妖精など追加されたガジェットも古めかしい。戦術が〜とかSFとして〜とかいいたいことは多々あるが、まあそれは言うのはやぼか(*1)。なんだかんだいいつつ続きが気になるのでたぶん次巻も読む。
”666”1巻を読んで少年少女の成長譚としての側面がクローズアップされたことに感心したが、それに加え今作で、推理小説としてもそれなりの評価を受けたシリーズ1巻の空気が戻ってきてビックリ。ミステリが成立するには”探偵”の存在が必要だということだろうか?
以前より、「ある男性と彼ををめぐる複数の女性たちによって繰り広げられる物語」いわゆるギャルゲー的世界において語るべき物語があるとすれば、それは男性がひとりの女性を選ぶまでの物語ではなく、彼らによって形成される共同体そのものの成立そして崩壊をめぐるそれなのではないか?と考えている。そういった意味でも、このシリーズがどのような着陸をみせるか、とても楽しみ。
たまに、ふいに、こういう奇跡のような物語が現れる。前作がいわゆるレイニー止めだったので続きは気になっていたのだけれど、書店で目にするまで新刊出ているのを知らなかった。なんの予備知識無しにこの本を読めたことに感謝。まずは人物紹介のイラストで衝撃を受け、そして第一章一行目。完璧にノックアウト。こ、これは傑作です。
うん。これはマリみてにおけるレイニーからパラソルのセットと同じくらいやられました。ライトノベル的な、キャラの立ち位置が決まりそれで幾らでも続けられそうな空気が出来上がったからこそ出来る大技です。次巻が楽しみ。
つくづく”関係萌え”(祥祐、祐瞳、アベミハ、四季×犀川、保呂草×各務 etc)な僕にとって、『サンデーGX』今月号の「ブラック・ラグーン」は僕がこの作品を読む理由である要素がみっしりつまった最高の内容だった。ロックとレヴィの、直線的ではない、しかし意味深な会話のやり取り。レヴィの部屋でベッドに寝そべりくつろぐロックや当然のようにパンティ一枚で前をうろつくレヴィの姿に「二人はやってない」説を採っていた(*1)僕は(あれ?)と思ったが、以前書いた「思うに二人(ロックとレヴィ)の間に愛情は無い。」という一文に修正の必要は無いだろう。肉体的な関係、パートナーとしての信頼関係、そして男女間の愛情、これらはこの作品では明確に分離されているということ。
「……言ってることは、わかってる。だから、その――……そこからは、お前の選択だ。」
cite ( 広江 礼威「ブラック・ラグーン#54 」『月刊サンデーGX 7月号』p134:小学館 )
レヴィがロックに求めた「名目」、それが何なのか、ふたりとも(そして僕らも)よく分かっている。
「ロビン・フッドなんぞどこにもいやしねぇんだ!!バカ野郎!」
「ロビン・フッドがいねぇなら、ロビン・フッドになればいい」
cite ( 広江 礼威『ブラック・ラグーン (2)』p128 )
だがロックはそれをある種の逃げだと考え、あえてずらした答えを返す。”ロビン・フッドでありつづけること”それが、この物語のはじめからロックがレヴィに望んでいることだからだ。
なんて素晴らしい。来月号がでるまであと何回読み返すだろうか。
追記。ブラック・ラグーンの最終回は、レヴィが死んで、ロックが日本に帰る/あるいはバラライカや張を超えるほどにこの街でのしあがっていくの二択しか無いような気がする。ふたり生き残って仲良く暮らしましたな未来が見えないんだよね。
分厚いハードカバー、しかも上下巻ということでスルーしていた。雑誌『switch』にて北上次郎氏が絶賛していた、その紹介を読んで興味を覚え購入した。北上次郎、ありがとう。
これは傑作ですね。例えば、僕がこの作品を読んで連想したアン・マキャフリイ『パーンの竜騎士』、宮崎駿『風の谷のナウシカ』がそうであるように、あるいは小野不由美『十二国記』が、荻原規子『空色勾玉』がそうであるように、十年、二十年と世代を超えて読み継がれるべき作品だと思います。