少女小説を読もう!

「この花のこと、覚えておいてね」
(「マリア様がみてる」今野緒雪:コバルト文庫)

「マリア様がみてる」は、今どきまっとうな少女小説である。

ちなみにここでいう少女小説とは、単なる女の子向けジュニア小説の意味ではない。(だいいち、今書店の少女向けコーナーは、8割がたBoy's Love小説で占められている)。古くは吉屋信子から始まる、登場人物の殆どが女の子の、その間で繰り広げられる感情の交感を細やかに描いた小説の事である。

本来少女小説とは、男中心に回っている現実社会の中で半ば無意識に抑圧され、傷ついている少女達に向けて書かれた物だ。女の子が女の子のままで、つまり「わたし」が「わたし」でいられる世界を描き、それによって少女が自分の性の原形としての女の子を祝福する能力を持つことが出来るために。作中に男性が殆ど登場せず女子校等を舞台にストーリーが展開されるのも、理由のあることなのだ。

そして、少女小説は自動的に自己の回復と成長というテーマを内包することとなる。それは、ヤングアダルト、のみならず小説全般でも一種の王道といえるものだろう。だからこそ「本物の」少女小説は、本来の対象である少女だけでなく、一般の人が読んでも楽しめるものとなる。 。

(ちなみに、はやりのBoy's Love小説の主人公は、大半が徹底的に受け身である。大抵相手からの強姦まがいの関係から始まり、なし崩し的に物語が展開する。その構造は、成年男子向け美少女マンガのそれと奇妙なほど良く似ている。その中に「わたし」の概念はほとんど存在しない)。

「マリア様がみてる」に話を戻そう。この小説の主人公は福沢祐巳という女の子。「私立リリアン女学園」の高等部1年だ。

この女学園は幼稚園から大学までエスカレーター式、カトリック系の超お嬢様学校である。超お嬢様なので、同級生同士は名前に「さん」をつけて呼び合い、上級生を呼ぶ時は「さま」をつける。もちろん挨拶の言葉は「ごきげんよう」だ。そこの高等部には、「姉妹(スール)」と呼ばれる特殊なシステムがある。本来は、生徒の自主性を促すべく教師やシスターの代わりに先輩が後輩を導く方法の事で、姉が妹を導くように、とのことから名づけられたものだった。しかしいつの頃からかそれを越え、個人的に強く結びついた2人のことを指すようになった。ロザリオ(十字架)の授受を行うことで「姉妹の契り」は成立し、それによって2人は姉妹であると認められるようになる。

学園の生徒会は名を「山百合会」といい、それを運営する3人の幹部達をそれぞれ紅、黄、白の「薔薇さま」(「山百合会」なのに「薔薇さま」というのはなぜ?)と特別に呼ぶ。また「薔薇さま」がたの妹は、一応選挙はあるものの基本的に生徒会が世襲制であることもあって、次代の薔薇を意味する「つぼみ(プゥトン)」と呼ばれる。(例えば、「紅薔薇さま」の妹は、「紅薔薇のつぼみ=ロサ・キネンシス・アン・プゥトン」となる。長いぞ!(笑))

祐巳は、以前から「紅薔薇のつぼみ」こと、2年生の小笠原祥子に憧れていた。とはいえ直接言葉を交わしたことなど無かったのだが、ある日突然、山百合会のメンバーの前でその祥子から、祐巳を自分の「妹」とすることを高らかに宣言される。本当なら相思相愛で喜ぶべきことなのだが、それは実は、祥子が文化祭で演じるシンデレラの役を断るために言い出した事だった。それを知らされた祐巳は、「姉妹」の申し出を断ってしまう。紆余曲折の結果、なぜかシンデレラの役を賭けて、文化祭までに「姉妹」になることが出来るかどうか、当の祥子と勝負することになってしまった…

確かに、慣れない人が読んだら甘々な内容に感じるかもしれない。しかし同時に、この小説の骨格は意外としっかりしていることに気づいたのではないだろうか。

始め祐巳が「姉妹」の申し出を断ったように、祐巳が祥子の心の中にある傷に気付き、彼女を助けるために今度は自分から「姉妹」にしてくれるよう祥子に請いた時、祥子もまたそれを拒否する。それは、作中彼女自身が語るように「賭けとか同情とかで「姉妹」になっても嬉しくないから」だ。

結局最後、めでたく2人は「姉妹」になる。初め、自分は祥子さまにはふさわしくないと考えていた祐巳が最後に申し出を受けたのは、祥子が、ありのままの自分を必要としてくれていると信じられたからだ。そして祐巳も、最初は「憧れの存在」だった祥子を普通に欠点もある一人の人間として認め、その上でごく自然に(やっぱり好きだなあ)と考えるようになる。

大事なのは、続編でとある登場人物が語るように、「片方がもう一方をおぶったり、肩を貸したりそういうのじゃなく、同じように自分の足でならんで歩ける」、相手に依存せずに、ありのままのわたしでいられる対等な関係である。そう、この話は主張しているのだ。

冒頭に挙げた言葉は、物語の終盤、祥子が祐巳に自身の象徴でもある「紅薔薇(ロサ・キネンシス)」の木の前で語ったもの。その木は、四季咲きであり、細いながらも地面から直接伸びた力強さを感じさせると描写される。それは同時に、作者がこうあってほしいと願う、現実に生きる「少女」達の姿としても、見ることが出来るだろう。(03/27.2000)

DATA::
「マリア様がみてる」今野緒雪:コバルト文庫
既刊6冊(5/1 2000 現在)
「マリア様がみてる」
「マリア様がみてる  ― 黄薔薇革命 ―」
「マリア様がみてる  ― いばらの森 ―」
「マリア様がみてる  ― ロサ・カニ─ナ ―」
「マリア様がみてる  ― ウァレンティ─ヌスの贈り物(前・後編) ─」

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